cinnamon teacup

エンターテインメントに支えられている人の、ぽつりぽつりとしたひとりごと

20/8/12 そっと

コンタクトを外すのが難儀になって爪を切った。深爪にしがちだった指先は、いつの間にかネイルをするのに丁度いい長さを保つようになった。見えにくいところも少しずつ変わり始めている。

積極的に音楽を聴きたいと思えなくなって数週間経つ。先日音楽で繋がった友人と話していて「一番好きなことができないのが寂しいんだもの、辛いよね、少し距離を置きたくなるよね」という話をした。ああ私だけじゃないんだと思ったし、きっと世界中に同じような状況になっている人はいるんだと思う。移動中、ちょっとは自然にイヤホンを手に取るようになってきて、少し安心した。

生活を続ける中で少しずつ、色々なことへの興味や好きなことへの熱量がなくなって来ているのを感じる。本を読む、文章を追いかけることへの熱量だけは保って。それ以外、とりわけ音楽や食事、ソーシャルゲーム、ものを集めることへの執着がちっともない。辛い、悲しいことが続くと「楽しいを感じるべきではない」思考が頭を支配しがちだ。裁縫をしようと思ったのに裁ち鋏を手に取れなくなった。せっかく良いものを購入したのに。そろそろ再開できそうな気はする。
「好きを無くしていってしまうこと」はゆるやかな自殺のようなものだと思う。他人ではなく自分自身に矛先が向いてしまいがちな癖があるとわかりつつ、どうも改善の仕方はわかっていない。ひとまず「不要だ」と思ったものをこの機会に部屋からなくしてみることにする。なくせばまた何か変わるかもしれないし、そうならないかもしれない。営みを続けることは難しい。

好きなことを好きと言ったり、したいことをしたいと言えることが、今や当たり前ではなくなってきている。すべきだ、してはならない、と言った強い言葉が飛び交うし、私も口にしがちだと思う。人に向ける時に柔らかく言葉を調整するように、自分に差し出す言葉もほんのり柔らかくできたらいい。たくさん傷付いたし、傷付けてきたし、反省も後悔もたくさんある。言葉は傷つけるためにあるのではなく、誰かをほっとさせたり、嬉しい気持ちにするためのものでありたいと、言葉を紡ぐものとして考えている。

また当たり前のように、好き!したい!したくない!と素直になるためには、少し心に休憩が必要なのだと思う。好きなだけ本に触れて、誰かの人生を追体験しながら、わたしらしさを取り戻して行けるように。