cinnamon teacup

エンターテインメントに支えられている人の、ぽつりぽつりとしたひとりごと

「常にHappyであろう」とする呪いを解くことにした

もちろん必要なのはポジティブで、明るくて、前向きで、笑顔を絶やさない人であることは重々承知の上で、自分と向き合うことにした。
「わたし」が見えにくくなってきたから。
気持ちの向く先は変わっても本質は変わっていないんだよね、というラフなお話。

自分に合っているかもしれない働き方をできるようになって、今までより少しだけ前向きになったり(それが本来の自分だったのかもしれないと思いつつ)腹を立てにくくなったりしてきて、社会人として生活を営んでいく上で良いことだと感じていた。
テキスト上の会話もポジティブなものが増えてきて、ほどよく明るいコミュニケーションをするようになってきて。

けれど、どこか「わたし」を置いてけぼりにしているような感覚もあって。
もともと私は考える時間が人より多く必要で、人から頭ごなしに言われて動くことに納得できず、自分で熟考して納得した回答を出すことが必要な性質をもっている。そんな時間を取ることも、振り返る時間も取らなくなってきていて、その感覚がだんだんと顕在化してきているように思う。
たとえば「愚痴に聞こえることは前向きな言葉に言い換えないといけない」「後ろ向きな発言は受け止めてもらえないかも」など、頭を過ることがあって。
なんとなく、立ち止まること、後ろ向きなことはそぐわないだろうなということを感じている。

油断するとすぐに「できない自分は必要とされなくなる」と自分で言い聞かせてしまう癖が昔からあるので、それが出てきたことによって、「今わたし、無理をしているかもしれないな」と考えるようになった。
子供の頃からの癖は考え方を訓練して調整しているだけで、染み付いているからなくなる訳ではないだろうし、かといって「悪いこと」とも言い切れない(この癖が悪いものだと決めてしまうと自己否定が余計に強くなる)ので、だったらそういう自分が根本にあるよね、と向き合って受け止めた方がいいのかなと。

「それ」を「呪い」と呼んだ、ここまで書いていたストックをあらためて見返して、あ、今なら続きを書けるかもと思った。(この当時、12月頃は書き殴っただけで書けなくなってしまった)

昨日ふとつぶやいたこの気持ちで、子供の頃から「好きなこと」「やりたいこと」を抑圧してきたことをすんなり認められた。いいことでもないけれど、悪くもない、そういう性質だよね、と。
親に好きなことについて話したこともほとんどないし、親がいない時間=一人の時間に大好きなゲームや漫画、イラスト描きをしていたなと思い出した。そして、金銭的な事情を考えて、好きなことを追求しよう、という考えも奥底に仕舞い込んでしまった。
そんな自分を育て直すつもりで、心から湧き上がってきた感情や考えにいったん向き合ってみよう。たとえばそれがHappyなものでも、前向きでなものでなかったとしても。そうしたら、置き去りになってしまった「わたし」が大人になれるかもしれないから。