cinnamon teacup

エンターテインメントに支えられている人の、ぽつりぽつりとしたひとりごと

強く映るひとは、強いわけではなく痛みを知っているひとなのだと思う

8月、お盆休みの帰省予定の2日前に母が骨折した。
珍しく「kでメマ右手骨折したぴよういん」なんて意味の汲み取れないLINEをしてきたので、これは何かあったんだなと思っていたら、スーパーの床で滑って手をついて右橈骨遠位端骨折をしたらしい。
帰って家事しようか?と言うと「お願いすることないし帰ってこなくていいよ」と言うのでのんびり過ごした。

母はめったに病気をせず怪我もしないので、
今回のことがよほど応えたのか、治療の度に連絡がくる。一方で子供のころから私は風邪をひけば中耳炎になって鼓膜を切開したり、自転車を乗り始めて顎から側溝に落ちたり、校庭で金網の上で転んだりしていたので、ある程度の痛みにはよくも悪くも慣れている。
治療のたびに足をジタバタしちゃうの、と言われるとかわいらしいところもあったのね、と考えながら聞く。

「あなたは強いわよね、すごいわね」と言われたけれど、だからと言って脆い部分がないかと言うとそうではないし、自分の身に何かあれば怖いと感じるし、この場合の強さはただ単に「痛みを知っている」というだけに過ぎない。知っている痛みだからこそ感覚を理解しているし予測できる、ただそれだけのこと。

同様に「いつも前を向いている人」や「いつも笑顔でいられる人」が必ずしも本質的に明るかったり、元気なわけでもないと思う。辛さや悲しみや喪失といったものを経験したからこそ振る舞える姿というものもある。強さや明るさの裏に何かが隠れていることも往々にしてあるもの。それを知っていることもまた大切なのだということを思い出した会話だった。

これを書きながらMacBook Airを閉じたり開いたりしながら、ももを隙間に挟んだ。痛いものは痛いよね。